加計呂麻 芝集落散策

2013年03月27日 | 関連する集落:
伝統行事「バッケバッケ」や豊年祭「相撲甚句」などを観に、
たびたび訪れている加計呂麻島の芝(しば)。

55世帯、人口80人のシマ(H25年1月末現在)

第6回島案内人育成講座に同行し、
今度は、ゆっくりと集落の中を散策してきました。


案内してくださったのは、芝にお住まいの豊島良夫さん。
まずは集落の端、薩川方面の海岸のほうへ。



海に突き出ている岩場「ワキンノハナ」。
ノロ神が、祭りをしていたというところ。

親ノロがハブを呼び出し、7つにちぎり、
頭を親ノロが食べ、残りを他のノロに与えた・・・という話も残っています。


岩場のそば「ワレンマ」には、防空壕跡が。
芝の人たちが手掘りしたもの。

中の高さは、約180cmほど。
「向こうに抜けられそうでしたが、ハブが怖くて止めた」と現場監督M。


木々が生い茂ってて分かりにくいですが、
隣の薩川集落へと続く山道。

薩川出身の受講生の方がここで思い出話を。
「芝の豊島丸船長が小学生だった頃、
ここを走ってきて15分で薩川に来たことがありますよ!」。

芝~薩川は現在の舗装された道で3km。歩けば約50分ぐらいでしょうか。
それを近道とは言え、小学生の足で15分とは驚きです。



元ペンション芝の奥には、むかし鍛冶屋があったそう。



その入口には、
魔除けとなる「石敢當」の一種でしょうか。
彫られている文字は 「石敢燈魔余仮」(?)。



ななめに積みが珍しいサンゴの石垣。



今は立派な畑となっている「ヤクジョアタリ」。
薩摩藩の島役人の役所があったとされています。

山裾には、落差3mほどの滝があり、
そこの泉跡では、ノロが水を汲む場所がありました。



豊島 榮(とよしま・さかえ)誕生地の碑。
明治2年生まれ、奄美の農業の礎を築いた人物。

島の人々の貧しい生活を見て育った豊島栄は、近代的な農業を学ぶため
当時農業研究では最高学府である東京駒場農林学校へ。
農林省からの就職の誘いも断り、大島島庁へ入るなどし、島の農業へ貢献。


泉跡の「ソツ」。



泉は、昭和2年の天皇行幸記念に青年団が整備。



日本のロシア文学研究の第一人者、「昇 曙夢(のぼり ・しょむ)生誕の地」。
海岸近くの胸像とは別の、集落の中にあります。

晩年は、奄美群島本土復帰運動に本土でリーダーとして尽力、
また郷土史家としての顔も。


石垣のあたりは、旅館跡。
昭和20年頃まであったそう。

古仁屋から名瀬への船の航路で、
加計呂麻島の人などは、いったん芝までやって来て一泊してから乗船。
昔は加計呂麻島内だけでも移動が大変だったことが分かりますね。

また、ここは豊年祭の振り出し場所。もう一つの場所と、年によって変わります。


新しい公民館の前のミャー(広場)には、トネヤが。
このそばには、簡易小学校がありました。



島でめずらしい赤レンガは、豊島家の屋敷跡。



近衛兵記念の門柱。昭和初期のもの。



コンクリートになってはいますが、カミミチ。
集落内には他にカミミチが2ヶ所あり。



宇検村にはたくさんありますが、
瀬戸内町では唯一、集落の共同納骨堂。



秋葉神社。
火事をおさえるために幕末に勧請したといわれます。



旧6月22日が祭日で、テラユワイ、テラマツリ。
忠魂碑もあって、祭日には日の丸を奉納する人も。
 



悲劇の死を遂げた夫婦を祀っている「イベガナシ」。

島役人の夫が、
自分が留守にするあいだ護身用にと妻に短刀を渡します。
夫は予定より早く帰ってきてしまい、
不審者と思った妻から刺され死亡。それを追って妻も自死したという悲しいおはなし。



集落の墓地へ。
ここには、「真塩加那 芝乃呂久目二代 宝暦十年」と彫られたノロ墓もあります。



また「與人 黍横目」と書かれたものが。

「與人(よひと)」とは、島の人が就ける役人の最高職。
「黍横目(きびよこめ)」は、サトウキビを取り締まる役人。
今で言えば、町役場の農林課 課長あたりでしょうか?



集落の西の外れにある「タンマ」へ。

この周辺は、藩政期には米蔵があったり、
江戸時代末頃には墓が建ち、昭和40年代までは田んぼもありました。


藤原 為矩(ふじわら・ためのり)の墓。
1771年に流刑され、4年後芝で死去した砲術家。


この碑文を建てたのは、
同じく砲術家で、1776年に加計呂麻島に流刑された徳田邑興(とくだ・ようこう)。

徳田邑興が主張していた火力絶対主義の兵法は、
薩摩藩士の伊地知正治に受け継がれ、
現在放送中のNHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場する『白河口の戦い』で発揮されます。

(参考:桐野作人「さつま人国誌」 http://373news.com/_bunka/jikokushi/75.php



堤防には、子どもたちの描いた絵。



ここもほんの数年前までは、砂利道だったんですが舗装されてます。
変わらないようで、少しずつ変わっいく島の風景。



その他、今回、行けなかったのが「クビリ」と呼ばれる場所があります。
人力で掘削したとされる運河。

黒砂糖を運ぶため芝と薩川を船で行き来する際、
突き出たデリキョンマ岬を回るよりも、クビリから船を転がして超えたほうが早い。
そのため明治になって地主たちがお金を出しあって運河を掘削。
大正10年ぐらいまでは、漁船も通っていたそうです。

 



島案内人育成講座の受講生の一人が
「最初は、この集落で何を見るんだろう?って思ってましたが、
盛りだくさんで時間が足りないくらいでした」と感想を述べていました。


私自身も、何度も足を運んでいるようで、
まだまだ見たことのない、
知らなかったシマ(集落)のものがたくさん。

シマには、気づかないようでまだまだ語れるものがたくさんあるんですね。



約3時間かけて、芝集落の中を案内してくださった豊島さん。

豊島さんのようにシマを語れる人がいる芝。
人が一番の宝・自慢かもしれません。

うたた寝している間に、親戚の子どもが落書きしたイラストの帽子。
とってもチャーミングでした!




< 参考文献 >
・「 奄美 加計呂麻島のノロ祭祀 」 松原武実  
・「 加計呂麻島ノロ祭祀調査報告 (旧実久村編) 」 松原武実、高橋一郎 
・「 まんでぃ 」 瀬戸内町役場まちづくり観光課





2013.2.27 瀬戸内町 加計呂麻島 芝 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内