シマの紹介

集落ごとの特徴など、シマごとにまとめた情報を見ることができます。

瀬戸内町の地図


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地区区分

瀬戸内町になるまで

薩摩藩政下の瀬戸内1805(文化2)年
奄美大島の行政区分は、上方(笠利間切、瀬名間切、名瀬間切、住用間切)と下方(西間切、東間切、焼内間切)に大きく二つに区分されていました。 この頃の瀬戸内町は東間切の東方と渡連方、西間切の西方と実久方に分かれていました。地図を見ると、島を越えた複雑な行政区分だったことがわかります。
明治初期の瀬戸内
藩政時代の方という区分名は継承していますが、複雑だった行政区域については地理的な面から整理が行われました。また、戸長役場制が実施され、古仁屋に東方役場、久慈に西方役場、押角に渡連方役場、瀬武に実久方役場が設置されました。
明治末期の瀬戸内
島嶼町村制が施行され、戸長役場は村に整理統合されました。この改編で東方が東方村に、渡連方と実久方が合併し鎮西村になり、西方が焼内間切と合併して焼内村として区分されました。  加計呂麻島、請島、与路島の村の名称は、実久三次郎が鎮西為朝の子供である由来から鎮西村と名付けられたと言われています。
大正5年~昭和11年までの瀬戸内
鎮西村から実久村が分かれ設置され、焼内村から西方村が分かれ設置されました。1920(大正9)年には町村制が施行され、1936(昭和11)年東方村は古仁屋町になりました。 1956(昭和31)年9月1日、西方村、古仁屋町、鎮西村、実久村は町村合併し瀬戸内町になり今日にいたっています。