曽津高埼灯台
明治29年11月に、奄美群島の灯台で最初に設置、点灯されたのが、
瀬戸内町の最西端にある
曽津高埼灯台【そっこうさきとうだい】
初代の灯台は、高さ約9.9mの八角形で鉄製と記録されています。
明治27・28年の日清戦争(現在の中国と日本の戦争)により、
日本国の領有となった台湾の経営・開発上緊急に航路を整備する必要から、
九州以南の屋久島灯台をはじめ釣掛崎灯台、沖縄の伊江島灯台、先原埼灯台などとともに建設された
いわゆる台湾航路灯台のひとつとして建設されました。
明治44年6月の喜界島地震(M8.2)で一部損壊し、レンガつくりに改築。
現在、このような建物跡が残っており、旧灯台跡の可能性が考えられています。
さらに、
調査中の文献資から、『望楼』というワードと「設置地域」がでてきました。
望楼とは、見張り台の施設のようですが、どのような施設なのか現在のところ不明です。
今後の調査で分かってくるかもしれません。
戦時中(昭和20年頃)、再三にわたり空襲を受けたため、
灯台を取り囲む塀には、銃弾の跡が生々しく残っています。
記録によると、空襲の激しさが増した昭和20年3月頃、
灯台の重要部分である「レンズ」を守るために、燈台付近の山中にレンズを埋めたようです。
終戦後、埋めた場所を発見することができず、灯台を復旧することができませんでしたが、
昭和25年に古仁屋警察の立会いのもと、レンズを発見、再度灯台の灯が灯されることになりました。
復帰前(昭和28年7月)には、琉球政府が四角垂型のコンクリート製の灯台を建立。
昭和63年2月、現在の姿である近代的な白い灯台に生まれ変わりました。
今でも、定期船や貨物船、地元漁船や遊漁船などの安全航行を見守り続けています。
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11月6日(木)、西方の戦跡調査を行い、簡単な計測など行いました。
想像以上に弾痕の跡が多く、驚きました。
調査中、
銃弾が残っている箇所も確認することができました。
奄美群島で最古の曽津高崎灯台。
約120年前から、何度も改築されながら、現在もこの地に存在し、航海の安全を見守っています。
今は消えることのない、灯台の明かりが、
灯されることのない時期があったんですね。
奄美群島を航海する船に乗る機会がありましたら、
歴史の流れを夢想しながら、曽津高崎灯台の灯火を眺めてみてはいかがでしょうか。
参考文献
瀬戸内町誌歴史編資料集1
西古見集落誌
2014.12
瀬戸内町立図書館・郷土館
埋蔵文化財