SBI講座「瀬戸内町の戦争遺跡について」

10月27日(日)瀬戸内町立図書館・郷土館にて
SBI講座「瀬戸内町の戦争遺跡について」を開催しました。

講師には、鹿児島県教育庁文化財課 前迫亮一先生をお招きしました。

前迫先生は、もともと縄文時代や弥生時代の考古学が専門分野。
県本土での発掘調査を通して戦争関連資料に遭遇し、
鹿児島には様々な戦争の痕跡が残されている事実があることを確認されてきました。

今回は、「発掘された鹿児島の戦争関連資料」~瀬戸内町の戦争遺跡は何を語るか~と題し、
ご自身の体験談を交えながら、ご講話いただきました。





この日は、たくさんの方々にお集まりいただきました。





鹿児島でおきた幕末の薩英戦争から昭和の太平洋戦争終戦までご講話いただきました。
鹿児島県では、60~150年もの間戦争が繰り返されてきました。

以下に、幕末から昭和にかけて起こった戦争をまとめてみました。

1863年 薩英戦争(文久2年)*
1877年 西南戦争(明治10年)*
1894年 日清戦争(明治27年)
1904年 日露戦争(明治37年)
1931年 満州事変(昭和6年)
1937年 日中戦争(昭和12年)
1941年 アジア太平洋戦争(昭和16年)*
1945年 8月15日終戦

この150年間で鹿児島は戦災、復興を3回繰り返しています。
このことは、知っているようであまり知られていませんね。


「ある地域が戦場になる」

それは、激戦地だけにとどまらず、周辺地域にも重大な影響をもたらすということでもあります。
県本土で始まった戦争の影は、ここ瀬戸内町で「戦跡」という形で、今現在も残っているからです。

奄美大島にはどのように戦争関連遺跡が配置されていったのか、
時代の流れを追いながら、瀬戸内町の戦跡を見ていくと、
今までとは違った目線で瀬戸内町の戦争の歴史を知ることができるかもしれませんね。



そして、沖縄県立埋蔵文化財センターから山本正昭氏に急遽ご参加いただきました。

沖縄県の戦争遺跡からみた、大島要塞の大きな役割とはなんだったのか、
今後の調査を実施していく上での課題について、お話しをうかがうことができました。



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今回、20代~80代の方がこの講座に参加されアンケートにご記入くださいました。

町内はもちろん、龍郷町や奄美市、旅行中の方(北海道から)までご参加いただいました。


「その土地の履歴を知り、記録をとり、次世代につないでいく」

前迫先生のこの言葉に感銘を受けたという方もいらっしゃいました。


自分もこれから戦争を知らない人が戦争を伝えていくことの難しさを感じていたので、
この言葉になるほど!と何度もうなずいてしまいました。




先生のお話を聞いて、戦跡の構築された年代を知りたくなったので、以下にあげてみました。

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大島海峡沿岸は
日露戦争直後から、日本軍の戦略・戦術上の要として重要視され始めたようです。

1908年(明治41年)海軍の大演習が実施
1920年(大正 9年)陸軍築城部の支部が古仁屋に開設 要塞の構築が開始
1921年(大正10年)安脚場砲台、皆津崎第一砲台、皆津崎第二砲台、
              実久砲台、西古見第一砲台、江仁屋離れ砲台、西古見第二砲台
              手安弾薬庫造成工事(完成は昭和2年)
1923年(大正12年)古仁屋に大島要塞司令部
1940年(昭和15年)安脚場に海軍防備衛所
1941年(昭和16年)瀬相に大島防備隊(海軍)
1944年(昭和19年)5月大島要塞司令部閉庁(徳之島と喜界島の飛行場防衛のため)
              8月渡連待網崎高角砲台着工
                震洋艇が正式武器となる
             10月南西諸島に初空襲
             11月呑之浦海軍特攻基地着工
1945年(昭和20年)3月空襲により古仁屋の街ほとんどが焼失
              8月15日終戦
              9月武装解除



年代を追ってみていくと、その時の状況を少しは感じることができるかもしれません。

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講座前日、前迫先生の現地調査に同行しました。

資料を手に加計呂麻島の戦争遺跡を訪ねました。


まずは、瀬相港に到着

港から、山の方にあった「旧海軍基地跡」を確認しました。


移動して、「旧海軍基地跡」地へ

ここは、戦没者慰霊碑へと続く道

今はとても静かな所ですが、当時この場所に、
戦闘指揮所、通信隊、兵舎、病院などのがあったなんて、想像もつきません。




慰霊碑の横にひっそりと司令部への入口があります。
周りの自然に溶け込んでいて、何も知らないと気づかないかも知れませんね。
指令室内は、コンクリートつくり。戦時中は、この中に通信機器が揃っていたそうです。




旧司令部より瀬相港が望めます。
沖縄補給及び離島輸送の中継基地として重要な任務を果たした場所
当時3000~3600名が動員されたと記録されています。




次は、
三浦にある「旧海軍艦船用給水ダム跡」地へといってきました。

どんどん森の中へとすすんでいきます。


森の奥にこんな場所があったなんて。


頑丈につくられていますね。


航空写真で位置を確認



ダムの用水路は石で組まれています。




ここが、戦争遺跡と知らなければ、とてもきれいな景観を想像してしまいます。




壊れゆく姿をみて、60年以上の月日が経過していることに気づかされます。




さらに、
呑之浦の震洋艇格納壕へと向かいました。

昭和19年11月、呑之浦基地を設営 
日本軍の劣勢を挽回するために製作されたのがこの震洋艇
現在は、レプリカが置かれています。

呑之浦では、格納壕が12本造られました。
急いで作る必要があった。

出入り口部分だけがコンクリート造り

奥にはいると、湿気もすごくなんともいえない緊迫感がありました。

この呑之浦基地の特攻隊長として赴任されたのが、島尾敏雄氏
出撃命令を受けたが発進の号令を受けないまま、即時待機のうちに終戦を迎えました。
その後作家として、戦争の体験記を描いた「出発は遂に訪れず」などの作品を残されています。

島尾敏雄文学碑



加計呂麻島の大島海峡東側・安脚場へ

大正時代に作られた陸軍監守衛舎跡が岬への出入り口に建っています。

太平洋戦争開戦後、陸軍が撤収し海軍の基地として使われるようになります。
時代の流れとして、建物の役割が変わっているという点も興味深かったです。


弾薬庫




上空からも海からもこのような建物があることなんて
気づかないほど、カモフラージュされています。



大正に作られたというコンクリートには、このような飾り?模様?が施されているんです。
何のために?



昭和に作られた海軍防備衛所

敵の艦隊を監視していた場所です。


この先には、大島の皆津崎を望めます。
この海峡の間に潜水艦の侵入を防ぐためのシステムが配置されていました。


昭和の鉄不足により、防備衛所のコンクリートには、

骨組みに鉄ではなく、“木”が使われています。
ここまで運ぶのは大変ですよね。。。
実際に見て感じることは、昭和より大正時代に作られた建物が頑丈であること。
台風や地震にも耐えていますが、
今後の安全性についても考えていかなければならないかもしれません。




タイムスリップしてしまいそうなくらい、調査に同行したメンバーも
戦争時代の“シマ”を考える一日となりました。



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「ある地域が戦争になった」

戦争だからということではなく、

『そのことが地域にとって極めて大きな出来事だった』

だから記録を残していく。。。


その地域の歴史が解明されるされるわけではないが、聞き取り調査などを行うことにより

『真実の歴史を後世へ伝える準備ができる』




前迫先生のお話を聞いて、

生まれた場所、育った場所、今いる場所、行きたい場所、ルーツ・・・

自分の関わった場所の履歴を無性に知りたくもなりました。


同時期に、この時代を生きた島のおじぃおばぁから

昔を振り返りながら、苦労されたお話、そのなかでの一番の楽しみなどの

昔話を聞く機会がありました。

こういったお話しを聞けたことが、とてもうれしかったです。



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只今、
奄美大島瀬戸内町を中心に

郷土館の委託事業として、

奄美.asiaさんが、聞き取り調査を行っております。

内容は、各集落の空間地図作成や昔話、昔の生活の様子、戦時中のお話しなど。

詳しくは、ブログをご覧ください。

また、追加情報や新しい情報などありましたら、お寄せください。

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たくさん勉強になった講座でした。まとめきれずに時間がかかってしまいました。





前迫先生、講座にご参加いただいたみなさん、ありがとうございました。



参考資料
平成10年度文化財会報
発掘された鹿児島の戦争関連資料
戦場の考古学
あまんでぃ
奄美戦時下米軍航空写真集



SBI調査員 Tadashi
2013.10.27